ブログNeochi

夜中に見て幸せに寝落ちするための雑記ブログ。

第4睡:公園で『楚辞』離騒を読む

 

こんばんは。nemasuです。

 

昨日は、家に篭って朝から昼までずっと作業をしていました。

13時ごろ一段落して、少し疲れてだらだらしてたんですが、

「そういえば今日は外出してなかったな」と思い、

日光浴ついでに、せっかくなら公園で本を読もうと考えました。

 

ちょうど読もうと決めていた岩波文庫の『楚辞』を手に持って、いざ出陣です。

公園に着くと、子ども連れの方や、

敷物を敷いてパーティーをされている方がたくさんいました。

私は読書にちょうどいい木陰を見つけたので、

そこに座って本を読むことにしました。

 

王逸「楚辞章句」本が序に記すところでは、

『楚辞』の表題篇ともいえる「離騒」は、楚の王族であった屈原の作だといいます。

屈原は一時は楚の懐王に登用されていたんですが、

あるとき讒言を受け辞任。

屈原は憂いに沈む中で、遠に懐王への批判を込めた「離騒」を作ったのだとか。

 

それを踏まえつつ、木陰で静かに「離騒」を読んでいると、

方々から子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてきます。

風を渡って、いくつかのシャボン玉がこちらに飛んできました。

結構ハードな「離騒」の話を読んでいるところなのに、

この公園は幸せな場だな、と思い始めてくる。

 

 

公園で本を読んでいる私が、私ではなく屈原だとしたら、

多分この公園に充満する「幸せ」が信じられないんじゃないかなと思います。

「私一人だけが清らかな精神を持っているんだ」と言いざま、

公園を立ち去り新天地に向かうことでしょう。

それもアリだと、思います。

 

何が良くて、何が悪いのか。善悪なんてものは本来存在しないんでしょうが、

「善悪なんて無い」と誰もが本気で信じたならば、世界は阿鼻叫喚、

すべての人間が指針を見失うことでしょう。

私も、本当は善悪の判断など捨て去って生きてみたいところですが、

多分どこにも進めなくなる。

足場のない崖は登れないし、重力と摩擦のない世界は歩けません。

それでも良いんだ、登らなくてもいいし歩かなくても良いんだ、という境地には、

まだ私は辿り着いていないし、

足場のない崖でも登れる特殊技能、重力と摩擦がなくても歩ける特殊技能を

持っているわけでもありません。

 

そのような状態で、一度「善悪」なるものを疑いだすと、

そんなことを何も疑っていなかった昔のように自由に行動することが

できなくなっていくような気がします。

はっきり言って困りました。

まだ「善悪」などと考えるには早すぎたのかもしれません。

人が簡単には答えを出せない、大きな命題なのですかね……?

 

以上、『楚辞』からインスピレーションを受けて、色々考えてみました。

自分の人生を通して乗り越えるべき壁が立ちはだかった気分です。

見たところ、踏めそうな足場はありません。

面白いっすね。

 

2023.04.24——nemasu.